植田城 | 遠州東横地村からやって来た横地氏の本城
名古屋市天白区の植田城は、戦国時代にこの地に勢力を持っていた横地氏の本城といわれているお城です。
歴史
横地氏は、もともと遠州東横地村(静岡県・旧菊川町)の豪族だったのですが、初代・横地秀綱が時の将軍・足利義政の命により、この地に移って来たのが始まり。
秀綱から数えて四代目の秀重の頃、戦国時代に入り、代々この地を拠点に勢力を持っていました。
五代秀政は、元亀元年(1570)織田信長に仕え、姉川合戦で戦死。
六代秀房は、天正十二年(1584)小牧・長久手合戦関連の『蟹江合戦』で討死。
七代目は弟・秀行で、この人は小牧・長久手合戦で、横地家の代表として、小牧山に参陣しています。
八代目は六代・秀房の子、秀住が継ぎ、子孫は代々この地に住み続けました。
植田城主としては、この八代・秀住で終わり、後は郷士となり、代々『権蔵』を名乗ったそうです。
大坂の陣が終わり、駿河に戻る家康がこの地を通った時、郷士となった八代目・秀住は家康に拝謁を許され、その際に【馬のわらじ】を献上しました。
家康は大いに喜び、横地氏代々の忠勤を称賛します。
その時、秀住が願い出て、植田村の農民は、東海道の助郷(※1)を永代免除されました。
(助郷(すけごう):徳川幕府が行った宿場や街道の整備、保護の役目)
植田村の人々は、大いに喜び、植田八幡社に初代・秀綱と初代『権蔵』である秀住を合祀しましたとさ。
感想
植田城はお城といっても、屋敷の周囲に堀と土塁を設け、兵舎と物見櫓があった程度のものと伝わります。
植田城跡と伝わる場所は、植田八幡社の東南100mくらいの場所。
現在は植田1丁目になりますが、この地には横地氏の子孫の方でしょうか?同じ姓の方が多く住んでおられました。
一説によると、かつて近くに『権現山』という山があり、そこにお城があったという事ですが、開発により、『権現山』は消滅してしまったとか。
現在では閑静な住宅地になっています。
・所在地 天白区植田1丁目付近
・立地 平城
・築城時期 ?
・築城者 横地秀綱
・主な城主 横地氏
・現状 住宅街
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