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		<title>愛知のお城めぐり</title>
		<link>https://www.oshiromeguri.com/</link>
		<description>かつての尾張国、三河国だった現在の愛知県に残る城跡を紹介したお城巡りサイトです。尾張、三河の主に戦国時代を中心とした歴史史跡を私が実際に訪れてみた感想と現地レビューを記載しています。</description>
		<language>ja</language>
		<pubDate>Fri, 26 Dec 2025 10:37:14 +0900</pubDate>
		<lastBuildDate>Fri, 26 Dec 2025 10:37:14 +0900</lastBuildDate>
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			<title>道満屋敷　｜　この地に勢力を持っていた柘植道満の屋敷跡</title>
			<link>https://www.oshiromeguri.com/miyoshi/04douman.html</link>
			<description><![CDATA[
愛知県みよし市に残る道満屋敷は、この地に勢力を持っていた柘植道満の屋敷跡です。歴史&nbsp;【三好町誌】によれば、柘植道満（つげ　どうまん）という人の屋敷が三好町大字西一色にあったとされますが、時期や詳細は不明です。道満屋敷について分かっているのはこれくらいで、後は謎です。感想&nbsp;かつて柘植道満の屋敷があったとされる場所は宅地、畑地として開発され、屋敷の遺構は残っていません。しかし立地をよく見てみると、西に三河と尾張の境界である境川が流れ、南にはかつての飯田街道（現在の県道５６号線）だったを押さえるなど、交通の要所だった事がわかります。こうした事から、私の感想ですが、道満屋敷は街道を押さえた土豪クラスの館だったのではないかと思います。お城巡りをしていると、必ずといっていいほどお城近くには旧街道が走っており、街道とお城の場所を専門に研究している人もいます。また道満屋敷の近くにはこの地の古刹・裕福寺があるので、柘植道満と裕福寺の関係も気になりますね。詳細が分かっていない豪族ということで、たぶん歴史の途中で滅んだ可能性もありますが、私の好きな郷土史クラスの土豪なので、今後、新しく判明したことがあれば、また追記したいと思います。所在地 　三好町大字西一色立地 　平城築城時期？築城者 　柘植道満主な城主 　柘植道満現状 　宅地・畑地地図
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			<pubDate>Sat, 30 Jun 2018 04:51:38 +0900</pubDate>
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			<title>明知城　｜　この地の土豪だった原田氏の居城跡</title>
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			<description><![CDATA[
愛知県みよし市の明知（みょうち）城は、この地の土豪だった原田氏の居城跡です。※明知の読みは　みょうち歴史&nbsp;愛知県中世城館跡調査報告２三河地区によると、明知城の城主は、この地に勢力を持っていた原田氏と伝わります。築城は原田親種という人物で、種次、重種と続きます。この原田氏、もともとは九州の大名・大友氏に仕えていましたが、流浪して三河へ辿り着き、松平清康（徳川家康のおじいさん）に仕えました。その後原田氏は代々徳川氏に仕え、小田原攻め、長久手合戦、関ヶ原合戦でも戦功を立てました。ところで明知城の城主に関して、もうひとつ興味深い歴史があります。同じみよし市にある裕福寺の看板には、嘉暦（かりゃく）三年（１３２８）、当時の太政大臣・久我通雄の二男である達智上人が諸国巡業した時の事。この時、裕福時にも立ち寄ったのですが、その時に明知城主・小野田長安と傍示本城主の帰依を受け、大伽藍を立てたとあります。この小野田長安という人物は、原田氏以前の城主だったのでしょう。感想&nbsp;明知城は現在大字明知字下屋敷の個人宅となっています。屋敷周辺を水路が取り巻いており、かつての堀の跡を想わせます。愛知県中世城館跡調査報告２三河地区では、明治時代の地籍図から５０m四方の丸みを帯びた地割りと、これを取り囲む細い地割がりが読み取れるとし、在地土豪クラスの居館ではないかと指摘しています。私の感想ですが、明知城は遺構は残っていないのですが、城主がどんな人だったのかという事に興味があります。その理由は、裕福寺に大伽藍を建立できる財力があった訳で、この地の権力者だったのでしょうね。しかし別の原田氏が城主として歴史に名前を残しているので、小野田氏と原田氏がどの様にして入れ替わったのか、そういった郷土史にも興味があります。所在地 　三好町大字明知字下屋敷立地 　平城築城時期？築城者 　原田氏主な城主 　原田氏現状 　水田・宅地
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			<pubDate>Sat, 30 Jun 2018 04:21:49 +0900</pubDate>
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			<title>三好城　｜　武田攻めで戦功があった佐久間大膳亮勝之の居城跡</title>
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			<description><![CDATA[
愛知県みよし市の三好城跡は、武田攻めで戦功があった佐久間大膳亮勝之の居城跡です。別名・三吉城。歴史&nbsp;【三好町史】よれば、三好城の城主は佐久間大膳亮勝之と伝わります。この人は天正十年（１５８２）、織田氏による武田氏攻めの際、信州高遠城の戦いで戦功があり三好城の城主となりましたが、天正十三年（１５８５）関東に赴いて以来廃城となりました。また別の資料には、城主として小野田氏の名が見られます。佐久間氏の以前の城主と思われます。三好城に関する歴史で分かっている事はこれくらいで、その他詳細は不明のままです。感想&nbsp;かつての三好城の場所は、現在みよし市立三好中学校となっており、学校建設時の地ならしでお城の様子はわかりませんでした。遺構は残っていないものの、三好中学校は周辺に比べると少し高くなっており（それでも５mくらいでしょうか）、何となく雰囲気が残っている様な気もします。私の感想ですが、三好城の興味深いところは資料に残る城主の名前だと思います。まず佐久間大膳亮勝之は、名字からして、現在の名古屋市昭和区周辺に戦国時代に勢力を持っていた佐久間氏一族を想わせます。また小野田氏はみよし市に近い名古屋市天白区の平針第一古城主・小野田勘六とのつながりが気になります。２人とも歴史的にあまり見ない名前ですが、こうした郷土史レベルの城から、人物像を調べてみるのも面白いですね。所在地 　三好町三好字八和田立地 　平城築城時期？築城者？主な城主　佐久間大膳亮勝之・小野田氏現状　みよし市立三好中学校地図
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			<pubDate>Sat, 30 Jun 2018 04:07:03 +0900</pubDate>
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			<title>福谷城　｜　原田氏の築城で酒井忠次の居城になったお城</title>
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愛知県みよし市の福谷（うきがい）城跡は、当地の土豪・原田氏の築城で、松平（徳川）家臣・酒井忠次の居城と伝わります。※福谷の読みは　うきがい歴史&nbsp;当時今川氏の傘下だった松平氏は、弘治年間（１５６６）～永禄二年（１５５９）にかけて、酒井忠次にお城を改修させ、敵だった尾張の織田氏に備えていました。しかし永禄三年（１５６０）年、桶狭間の合戦で今川義元が戦死。松平氏は翌年、織田氏と結ぶ事になり、尾三同盟が成立します。その後国境のお城である福谷城は、その役割を終え廃城となりました。感想&nbsp;今川義元の存命中は、三河と尾張は激しく戦っており、この福谷城も織田家の武将・柴田勝家が攻めています。さて、そんな福谷城ですが、お城跡は標高２０ｍ程の小山にあり、現在では２つの郭を確認する事ができます。さらに北側の郭周辺には、堀跡も残り、満足度の高いお城でした。北側の曲輪。土塁も確認できますよね。三好町教育委員会の看板もあります。周辺には堀跡も確認できました。&nbsp;（愛知県中世城館跡調査報告２　三河地区より）福谷城の縄張り図を見てみましょう。本丸はⅡの削平地で、現在神社になっています。上の写真の北側の曲輪はⅠです。つまり本丸のほうが標高が低いのですね。あと、『西部平坦面』はそのままの平地で、ココに車を停めました。かつての曲輪跡でしょうか？そして一番上の四角い区画は、城山保育園です。所在地 　三好町大字福谷字市場６１-２立地 　丘陵築城時期 　１５世紀～１６世紀築城者主な城主 　原田氏重・酒井忠次現状 　山林・畑地・宅地地図
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			<pubDate>Sat, 30 Jun 2018 03:46:43 +0900</pubDate>
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			<title>大久保陣屋　｜　三河物語の著者・大久保彦左衛門の陣屋跡</title>
			<link>https://www.oshiromeguri.com/kouta/11ookubo.html</link>
			<description><![CDATA[
愛知県額田郡幸田町の大久保陣屋は、三河物語の著者・大久保彦左衛門の陣屋跡です。歴史&nbsp;天下のご意見番として知られる大久保忠教（彦左衛門）の大久保氏の陣屋跡です。大久保氏はもともと『宇都宮氏』と称していましたが、彦左衛門の父・忠員の時から『大久保氏』を名乗りました。大久保氏は代々、松平氏・徳川氏に忠勤を励み、譜代の家臣として各地を転戦、 忠教は慶長十九年（１６１４）に家康の直参として取り立てられ、千石の知行でこの地に陣屋を築きました。その後、寛永元年（１６２４、さらに千石の加増をうけ、竜泉寺、桑名、葉栗を領しました。感想&nbsp;大久保陣屋跡は現在八百富神社となっています。鳥居の下に当時の石垣が残り、看板も建っています。私の感想ですが、大久保彦左衛門は有名ですが、その陣屋跡も石垣などが残っているので、歴史好きや城好きの方にはオススメの陣屋だと思いました。また幸田町では毎年７月に大久保彦左衛門を顕彰する、幸田彦左まつりが開催されます。＞＞幸田彦左まつり | 幸田町観光協会公式サイト&nbsp;大久保陣屋の隣にある坂崎公民館の敷地に、平岩の射割石という大きく平らな石があります。この名石は、若いときから家康に仕え、後に尾張・犬山藩主となった平岩親吉の先祖が、坂崎の領主となった時、この名石にちなみ『平岩氏』を名乗ったそうです。もとは幸田町大字久保田字平岩にあったそうですが、耕地整理の際にこの地に移されました。所在地 　幸田町大字坂崎字御屋敷立地 　平城築城時期 　慶長十九年（１６１４）築城者 　大久保氏主な城主 　大久保氏現状 　八百富神社地図
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			<pubDate>Fri, 4 May 2018 04:43:09 +0900</pubDate>
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