重原城 | 信長公記では鴫原城!今川氏に落とされた山岡氏の居城




重原城 | 信長公記では鴫原城!今川氏に落とされた山岡氏の居城

 

 

知立市の重原城跡は、今川氏に落とされた山岡氏の居城です。

 

 

 

 

 

歴史

 

信長公記では鴫原(しぎはら)城との記述で登場する重原城。もともと重原荘という荘園があった地です。

 

 

重原城が築かれた年代は不明ですが、織田信秀の家臣・荒川新八郎が居城し、松平広忠(徳川家康の父)と戦ったという記録が残っています。

 

 

知立市教育委員会編集の池鯉鮒のむかし話によれば、天文十七年(1548)頃の城主は島津政兼という人でしたが、今川義元に味方したために織田氏に滅ぼされてしまいました。

 

 

その後、織田氏によって山岡河内守伝五郎という武将が城主となります。

 

 

天文十八年(1549)、今川氏が安祥城を織田氏から奪い、この地域は今川・松平、織田・水野と駆け引きの嵐が吹きまくりました。

 

 

そんな中、重原城は織田方の城として、今川・松平に対する重要拠点として存続しました。

 

 

しかし織田信秀の死後の天文二十三年(1554)、今川氏によって落城します。

 

 

当時、重原城を守っていた山岡河内守伝五郎は討ち死にしました。

 

 

その後、今川勢は重原城を拠点に、村木砦(東浦町)を築くなど尾張侵攻に乗り出しますが、桶狭間で今川義元が討たれた後は重原城を放棄、その後廃城となりました。

 

 

 

 

 

感想

 

上重原公民館の裏に重原城の石碑があります。

 

 

前方には堀の役割をしていたのでしょうか?長篠川という川があり、公民館の向かい側の竹薮には、重原城のものと伝わる土塁が残っています。

 

 

土塁を眺め、円を描くように重原城の周辺を歩いていると権現岩(ごんげいし)なるものを発見しました。

 

 

看板によると、天文二十三年(1554)の今川勢が重原城を攻撃している時、突如、仁王様の様な大男が現れ、今川軍の矢面に立ち、この間城主の山岡河内守は難を逃れる事ができました。

 

 

山岡河内守が日頃信仰していた『権現石』が大手門に現われ、重原城を守ろうとしたのです。合戦後、こんも権現石には無数の矢が刺さっていたとか。う〜ん…神秘的ですよね。

 

 

ちなみにこの権現石、現在では手厚く祭られています。

 

 

 

 

 


公民館の前を流れる水路は、かつての重原城の堀跡を利用して作られたものと伝わります。

 

 

 

 

 


公民館の近くの民家には、重原城の土塁が残っています。私の身長が150cmなので、土塁は高い部分で約2mくらいの高さがある事が分かりますね。

 

 

 

 

 

 


権現石を祀った祠。祠の中の石には確かに矢が刺さった様な跡が!お参りしたくなりますよね。

 

 

ちなみに権現石に助けられた山岡氏、その後の行方は分かりません…教育委員会の看板もあります。

 

 

所在地  知立市上重原町本郷

 

立地 平城

 

築城時期  ?〜天文二十三年(1554)

 

築城者  荒川新八郎

 

主な城主  荒川氏・山岡氏

 

現状  上重原公民館・竹薮・民家

 

地図


関連ページ

この地の土豪で知立神社の神主でもあった永見氏の知立城
かつての三河国だった愛知県知立市に残る知立城は、この地の土豪で知立神社の神主でもあった永見氏の居城跡です。この記事では知立城の歴史と現在の様子、そして私の感想を書いています。
牛田城 | 水野氏の家臣牛田玄蕃政興の居城
かつての三河国だった愛知県知立市に残る牛田城は、緒川の水野氏の家臣だった牛田玄蕃政興の居城です。この記事では牛田城の歴史や現在の様子、そして私の感想を書いています。
知立市の八橋古城ともいわれる葦香城は、平安時代の村上兵部兼房の居城跡
かつての三河国だった愛知県知立市に残る八橋古城ともいわれる葦香城は、平安時代の村上兵部兼房の居城跡です。この記事では葦香城の歴史と現在の遺構、そして私の感想や仮説を記載しています。
来迎寺城は別名・今崎城ともいわれる桶狭間合戦で落城したお城
かつての三河国だった愛知県知立市に残る來迎寺城は、今崎城ともいわれるお城です。この記事では來迎寺城の場所や歴史、そして現在の様子と私の感想を書いてみました。

ホーム RSS購読 サイトマップ