鯏浦城 | 信長の弟・信興の居城で敵対する服部氏が攻めたお城
愛知県弥富市の鯏浦(うぐいうら)城は、織田信長の弟・信興の居城で敵対する服部氏に攻められたお城です。
歴史
鯏浦城は、尾張西部に勢力を持ち、織田信長に反抗していた服部氏とその一党に対抗するために、永禄八年(1565)頃、信長が築いたお城で弟・信興に守らせていました。
鯏浦城があった辺りは、昔は海岸線であり、荷之上集落とともに自然堤防上に立地し、蟹江城と並んで中世期城砦の最南に位置しています。
服部氏はもともと尾張守護・斯波氏の旧臣で、織田氏とは同格という意識が強く、まったく従いませんでした、というか隙あらば信長を倒そうとしていたのです。
例えば永禄三年(1560)の桶狭間合戦時には、今川義元と共に信長を挟み撃ちにしようとしたり、長島一向一揆に味方するなど、敵対心バリバリでした。
そんな服部氏を押さえるために築いたのが鯏浦城で、信興がしばらく服部氏に睨みを利かせていました。
この信興は、古木江城主(愛西市)も兼ねており、一向一揆に対する織田家の指揮官だった様です。
ですが服部氏は元亀元年(1570)に動きだします。
まず鯏浦城を攻め、信興を古木江城まで押し戻し、伊勢長島一向一揆の民衆と共に攻め、信興は亡くなってしまいます。
これ以来、信長は服部党ら対抗勢力に対して攻め入り、三度目の天正二年(1574)には大軍を送り込み、周辺をことごとく焼き払いました。
そうこうしているうちに鯏浦城は廃城になったみたいです。
信長公記に次の様なエピソードが記載されています。
永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、服部氏は今川義元が桶狭間まで出陣したのを知り、信長を背後から襲うべく、船で桶狭間に向けて出陣しました。
しかし到着する前に義元は討たれてしまいます。
でも手ぶらでは帰る事ができず、当時、織田家に従っていた熱田の町を焼き払おうと、熱田に上陸します。
ですが武装した町民たちの抵抗に遭い、コテンパンにやられた服部さんは、結局逃げ帰ったのでした。
感想
鯏浦城は織田信興、服部友貞率いる服部党と、目まぐるしく戦乱に遭った歴史を持っています。
そんな鯏浦城ですが、今では静かな住宅地の中の薬師寺というお寺になっており、お城の遺構は残っていません。
鯏浦城跡には、信興が崇拝していた薬師如来を収めるための御堂が建てられ、これが明治時代初めに現在の薬師寺となりました。
現在、境内に鯏浦城の石碑がありますが、これは昭和五十一年に建てられたものです。
また境内には大楠があり、樹齢は六百年とも伝わります。もし本当なら、この大楠は歴史の移り変わりを見てきたのでしょうね。
境内に聳える大楠。樹齢六百年と伝わります。
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