楽田城 | 小牧長久手合戦で羽柴秀吉の本陣になったお城
愛知県犬山市の楽田城跡は、永正元年(1504)頃に築かれたお城で、天正十二年(1584)年に起こった小牧長久手合戦では、羽柴秀吉の本陣となったお城です。
また永禄元年(1558)頃に天守が築かれたといわれる初期天守説があるお城でもあります。
歴史
永正元年(1504)に尾張守護代の織田氏一族で、大赤見城主の織田久長の築城と伝わる楽田城は、東西約72m、南北約97mの規模があり、二重の堀に囲まれていたそうです。
永禄年間始め(1558〜)犬山城主・織田信清に奪われましたが、信長が犬山城を攻め信清を追放、坂井政尚に守らせました。
しかし元亀元年に、堅田の戦いで政尚が討ち死にしたため、梶川高盛が城主になりましたが、高盛の死後、しばらくして廃城になりました。
そして小牧・長久手合戦で堀秀政が入城し、後に羽柴秀吉が本陣を楽田城に移し、小牧山城の織田信雄、徳川家康連合軍と対峙しました。
楽田城は日本の城で初めて天守が築かれたという説があります。【遺老物語】によると、
『楽田城に永禄元年(1558)高さ二間余(約3・6m)の壇を築き、その上に五間、七間の櫓を造り、真中に八畳敷きの二階座敷を造りしが天守の始め』
という記載があります。
天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりといわれ、その時期が(永禄十年(1567)頃といわれていますから、もし楽田城が先に天守が築かれたとなると岐阜城よりも約10年早い事になります。
しかしこの説について小学館発行の【ビジュワル・ワイド 日本の城】では、楽田城の『日本最初の天守建造説は誤り』としています。
感想
かつては小牧長久手合戦で秀吉方約10万の軍勢の本陣となった楽田城ですが、現在は犬山市の楽田小学校一帯と伝わります
この小学校の中央が本丸跡だったそうですが、現在では立派なグラウンドになり遺構は消滅しました。
小学校門正面にお城跡を伝える石碑があるほか、この石碑が建っている場所をよく見ると周辺より高い場所にあり、かつてのお城の高低差みたいなものも偲ぶ事ができます。
また楽田小学校から北へ約100mの所にある須賀神社にも楽田城小城址という石碑があり、この辺りまでが楽田城だったのか、あるいは楽田城の出城みたいなものがあったのかもしれません。
あと城山という字名からも、現在では平地に近い状態ですが、戦国時代はここに小山があったのかもしれません。
楽田小学校にある楽田城の石碑を横から見てみると高い場所にある事がわかります。周辺より一段高くなっているのは、もしかするとお城時代の高低差の名残かもしれません。
須賀神社にも楽田城を現す石碑が建っています。この神社も道路から少し高くなっているので、楽田城の一部、もしくは出城、曲輪みたいなものがあったのではないでしょうか。
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