戦国時代に長久手市にあった岩作東城と岩作西城
愛知県長久手市の岩作(やざこ)地区には、戦国時代に2つのお城があったといわれています。
それが岩作東城と岩作西城です。
※岩作の読み方は、やざこです。
この2つのお城は、天守を持った大きなお城でもなく、現在ではすでに存在しませんが、文献に残り、研究をしている人もいます。
では、この2つのお城、岩作東城と岩作西城の歴史と現在の状況をチェックしてみましょう!
岩作東城
現在の長久手市役所がある場所に岩作東城があったといわれています。
城主は今井四郎三郎という人で、天正十二年(1584)年の小牧・長久手の合戦で徳川方に加わり、岩崎城の防衛に参戦し、討ち死にしたといわれています。
お城はその時落城しましたが、近年の発掘調査で17世紀くらいまでは、居館としての形態は保たれており、江戸時代も地域の有力者が住んでいたのかもしれません。
現状は長久手市役所で、市役所の駐車場の前に岩作城址という石碑が建っています。また住所(地名)も【城ノ内】というお城ゆかりのものです。
岩作西城
岩作西城は、東城から約300m程、西に離れた場所にあったお城です。
【尾張志】によると、城主の名前は鈴木権八という人で、東西約54m、南北約18mの規模があったそうです。
西城に関してはこれくらいしか分かっておらず、現在ではお城時代の遺構は残っていません。
感想
私の岩作東城と西城の感想ですが、この2つのお城は戦国時代に非常に重要な場所にあったと思います。
その理由は2つ有ります。そのひとつが同じ街道沿いにあるという事です。
東城と西城の目の前を通る県道215号線は、東に進むと現在の瀬戸市の菱野地区に向かう道筋で、もしかするとかつての街道なのかもしれません。
そう考えると、街道を押さえるお城だったという事がわかりますね。
そしてもうひとつは、小牧長久手合戦で徳川家康が陣を置いた色金山に非常に近い事から、合戦時に前線基地というか、砦みたいな役割を果たしたのではないかなとも思います。
この岩作東城と岩作西城に関しては、残っている文献も少なく、詳細も不明な点が多いため、今後の研究が期待されますね。
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