碧南市の三河大浜城と羽城そして江戸時代の大浜陣屋は同じ場所?
かつての三河国である碧南市には、三河大浜城、羽城、そして江戸時代の大浜陣屋があったといわれていますが、これらは同じ場所ではないかという指摘があります。
この記事では2つの城と1つの陣屋の歴史、そして現地レビューと私の感想を書いてみました。
大浜城
まず歴史に出てくるのがこの大浜城です。別名・大浜古城とも。
大浜城の城主について、三河国二葉松には稲熊氏、天野氏、永井氏の名前が見られます。
愛知の城(山田柾之著・マイタウン)によると、松平清康が暗殺された守山崩れの後、松平一族で争いが起き、天文十七年(1548)山崎城(安城市)の松平信孝は織田氏に属して忠広の岡崎城を攻めようとしました。
しかし広忠が頼っていた今川方の武将・上田兵庫元俊が信孝軍を破り、今川義元から大浜に領地をもらっています。
その後、天野孫三朗が大浜を領し、次に稲熊氏が大浜に住みましたが、このときの砦が後に大浜古城と称されます。
そして永禄三年(1560)の桶狭間合戦後、稲熊氏は大浜を去り、大浜古城は荒廃しました。
羽城
桶狭間の合戦後、今川氏から独立した家康は三河一向一揆を経て、何とか三河を統一するまでになりました。
羽城はそんな家康が舟手の要害として大浜に築き、長田重元に守らせたお城です。お城は東西約90m・南北約109mの長方形で、西方は海に望んだ台地上でした。
ちなみに城主の長田重元の息子は永井伝八朗直勝という人で、小牧・長久手合戦時、徳川方に属し、羽柴方の池田恒興を討ち取った人です。
東端城(安城市)の城主となり、悲劇の人・百合姫の夫でもあります。
大浜陣屋
明和五年(1768)に水野忠友が一万三千石で構えた陣屋跡です。
安永六年(1777)に二万石となり、沼津に築城して移り大浜藩自体は廃止されますが、その後も水野氏は三河に領地を持ち続け、大浜に陣屋を構えていました。
慶応三年(1867)の大政奉還後は菊間藩の陣屋となり、明治になると役場が置かれる等、時代は変わっても大浜において重要な場所でもありました。
感想
これら2つのお城と1つの陣屋ですが、歴史や愛知県中世城館跡を調べてみると、3つともほぼ同じ位置にあったのではないかと思います。
それが現在の碧南市羽根町1丁目23番地にある大浜陣屋公園です。
歴史のを見てみると、まず大浜城の跡地を利用して羽城が築かれ、羽城を改修したのが江戸時代の大浜陣屋という流れです。
これについては愛知県中世城館跡調査報告U西三河地区に、おもしろい記述があります。
それによると【碧南市史】所収の【大浜陣屋の図】というものがあり、大浜陣屋の中央にあった屋敷部分が、伝えられる羽城の規模と一致するとか。
しかし現状は陣屋址公園となり、やはり羽城時代を偲ぶ事はできません。
また公園の南には、大浜陣屋ゆかりの陣屋稲荷があり、近くの常行院の山門は、かつての大浜陣屋の裏門と伝わります。これらもセットで周るのもオススメです。
公園の中はベンチ、テーブルが置いてあり、芝生広場が広がっています。
陣屋公園の中には江戸時時代の陣屋に関する看板がありますが、大浜城や羽城については書かれていません。
大浜陣屋ゆかりの陣屋稲荷にも、お参りしてみてはいかがでしょう?
碧南10ヵ寺のひとつ、常行院の山門は、かつての陣屋の裏門と伝わります。
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