木田城 | 一色左馬之助、荒尾空善、池田輝政が居城したお城
愛知県東海市の木田城は、一色左馬之助、荒尾空善、池田輝政が居城したお城です。
歴史
木田城は鎌倉時代末期に、この地の有力者だった一色左馬之助が築き居城したことが始まりとされています。
そして戦国時代には、知多半島西北部にあった荒尾七ヶ村の地頭で、鎌倉幕府、室町幕府の奉公衆を務めた荒尾氏が入城しました。
荒尾氏は織田信長に味方して、天文二十三年(1554)の村木砦攻め、天文二十四年(1555)の寺本城攻めにも参加し、この地での勢力を強めていきます。
しかし空善には嫡子が無く、大野城の佐治氏から善次を婿養子に迎えますが、善次の息子・善久は元亀三年(1572)の三方ヶ原合戦で討ち死にしてしまいます。
すると善次は池田恒興の次男・古新丸(後の池田輝政)を養子に迎え、木田城主にします。
その後、天正十二年(1584)年の小牧長久手合戦で池田恒興と長男・元助が長久手で討ち死にすると、輝政は池田家を継ぐことになり、木田城は城主も居なくなり廃城になりました。
感想
鎌倉時代の築城説がある木田城は、東西約36m、南北約55mの規模で、東海市では一番高い場所にあります。
その木田城があった場所は、大田町城山15〜21番地あたり。現在民家になっています。
昭和46年頃から小山が削られ、城山の津島神社の前の道路がつくられたり周辺の宅地開発が進みました。
現在は木田城の遺構らしきものは残っていませんが、付近の民家から五輪塔が出土したり、空堀跡があったと伝わります。
近くにある信号。『城之腰』という名前が、かつての木田城を偲ばせています。
木田城には財宝伝説があります。
【朝日夕日のあたるアララギの木の元】に財宝が隠されているという伝説があり、江戸時代に木田城の財宝を探すために、近くの村の若い人達が財宝探しに挑戦しました。
三日目の夕方、大きな石を探し当て、これが財宝を埋めた石室と思った若い衆は大喜び。
日も暮れたから明日掘り出そうという事で、前祝いと称し大宴会を行いました。
次の日、本格的に掘ってみると、実は単なる大きな石でガッカリした若い衆でしたが、昨夜の大宴会の出費もあり、さらに落ち込みます。
結局、若い衆のひとりの父親がその石を買い取り、酒代を出してくれましたとさ。
愛知県中世城館跡調査報告W 知多地区より
作図者石川浩治氏
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