桶狭間の合戦
三河湾
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織田方の城・砦
今川方の城・砦
東海道
■ 永禄三年(1560)、25000とも伝わる大軍を率いて尾張へ進軍した今川軍。
今までの通説では上洛の為の進軍とされてきましたが、最近の説では上洛ではなく、
尾張国の支配ではないかとのこと。
ともあれ、5月15日に駿府を立った今川軍。先方が尾張と三河の国境『境川』を越えて
尾張へ侵入したのは5月17日。
すでに知立城・沓掛城・鳴海城・大高城の四城は、謀反や調略、城攻めで今川方に転じて
いました。
信長はこれに対し、お城や砦を築いて動きの封じ込めを図っていましたが、その危うい均衡が
今川軍の総攻撃によって崩されようとした時、信長は討って出ました。
では当時の桶狭間の勢力図を見てみましょう。



…
今川方の進軍ル−ト
織田方の進軍ル−ト
@ 今川軍がやってきた!
永禄三年(1560)5月17日、今川本軍は尾張へ侵攻、義元は沓掛城に入城します。
翌18日に松平元康(後の徳川家康)が大高城へ兵糧を運び入れ、救援に成功。このとき大高城は
織田軍に包囲され兵糧攻め状態になっていました。


松平元康(後の徳川家康)
A 信長立つ!
ここから今川軍の攻撃が始まります。まず大高城の北に位置する【丸根砦】・【鷲津砦】を攻撃、
この2つの砦が落ちれば、今川方は鳴海城と連絡がとれるのです。
この報せは19日の早朝に信長のもとへ届けられました。
信長は『敦盛』を舞い、甲冑を身に付け、立ったまま食事をとり、兜をかぶって出陣!
この時は信長と小姓衆で合計6名で清洲城を討ってでました。
今川軍の猛攻をうける丸根砦・鷲津砦
信長は『敦盛』を舞い、出陣準備に!
B ちょっと休憩。熱田神宮
午前8時頃に熱田神宮へ到着。この時、『信長公記』によると馬上6騎、雑兵200人ほど
だったそうです。
でも熱田で兵の集結を待っていると、1000人ほどになりました。ちなみに小説やドラマでは、
この時に熱田神宮の本殿の裏から白鷺が飛び立ち、織田軍の勝利を示し、士気が上がった様な
場面があります。
ところで、この間にも戦況が動いていました。丸根・鷲津の両砦の方を見てみると煙が上がっていました。
どうやら陥落してしまったようです。
熱田神宮へ集結する織田軍。
結局1000人程の軍勢に膨れ上がりました。
C 義元、動く!

今川義元
19日、今川義元は沓掛城を出て、正午に桶狭間に到着。
『桶狭間山』(おけはざまやま)で人馬に休息を与えていました。
(おけはざまやま)という山は当時から無く、『桶狭間にある山』
という意味と思われます。
現在の愛知県豊明市と名古屋市緑区の境に、標高65m程の小山が
ありますが、最近の研究では、この小山が信長公記に出てくる
(おけはざまやま)で、今川義元が休息していた場所ではないか
といわれています。
今川本陣では戦勝を祝っていました。
義元の意識に『負け』の二文字は無かった瞬間です。

※ ちなみに大高城へ兵糧を入れ、丸根砦を攻め落とした元康は、
この時大高城で休憩中。
D 信長、桶狭間へ!
さて、熱田神宮から丹下砦を経て、善照寺砦に着いた信長。
これを知り、佐々政次・千秋季忠の2将が兵300ほどを率いて今川勢に突撃、
佐々政次・千秋季忠と50名ほどが討ち取られてしまいました。
この後、信長は中島城に移動。この時信長軍は2000に満たない兵数でした。
そして中島城から桶狭間へ!
山際まで軍勢を寄せた時、かなり激しい『にわか雨』が振り出しました。
どれくらい激しかったかというと、当時、沓掛の峠に二抱え、三抱えもある楠がありましたが、
その楠が雨で折り倒されたとか。
その雨が北西に陣を張っていた今川軍は顔に降りつけ、織田軍には背中から降りかかりました。


善照寺砦は、現在公園になっています。
中島城は民家になっていますが、住人の方のご好意に
より、敷地内の石碑を見る事が出来ます。
E 決戦!まさかの桶狭間!
激しい雨が止み、空が晴れました。
信長は槍を取り、大音声を上げて『それ、掛かれ、掛かれ』と叫びます。
織田軍の突撃に今川勢は水を撒くように後へどっと崩れました。
義元の朱塗りの輿さえ打ち捨てて、逃げ崩れました。
乱戦の中、今川軍は300名ほどが丸くなり、義元を囲んで退きましたが、遂には織田軍に
追いつかれ、今川義元は討たれてしまいました。
← 織田勢の服部春安(小兵太)が義元に討ちかかりますが、
義元もただでは討たれません。
応戦して、逆に春安の膝口を切りつけます。
→ しかし激戦の末、義元討たれる!
歴史が大きく動いた瞬間でもありました。







永禄三年(1560)